ボサノバ兄弟「Three Way Tie」


ボサノバ兄弟「Three Way Tie」PGR-006



1992年に長野潮、長谷川豊、大高ジャッキーの最強トリオが存在した。

super stupid以前に活動したユニット。

1990年、世界的にセカンド・サマー・オブ・ラブが大爆発した時代に、毎週末3人で大高ジャッキーの自宅スタジオに集まり、徹夜で最低でも10週間を費やし制作された。

4 Trackのカセットテープ多重録音機にMIDI信号を入れ、シーケンサーと同期し、機材は全てハードで行われた。
また、当時としては画期的な「生楽器とテクノの融合」を計り、独自に解釈したラーガ、ジャマイカのダブなどの要素が取り入れられている。





メンバー:
長野潮(牛若さん):Brain、Programing、Keyboard、Voice(M6 & M9)

長谷川豊:Brain、Programing、Flute、DUB Delay

大高ジャッキー(super stupid):Bass、Guitar、Sitar、Rhythm

斎藤直樹:Engineer、Noise Reduction、Mastering


ボサノバ兄弟:プロフィール(大高ジャッキー筆)

この世に牛若さん aka 長野潮と言う素晴らしいミュージシャンが存在した。

オレが高校3年の時に入ったカジノスと言うバンド。
カジノスとよく対バンしていたセント・バーナーズと言うバンド。
そのボーカリストはバンドを辞めたがっていた。
煮詰まっていたのだ。
オレも同じだった。

そして、そのボーカリスト、ramuchi2000GTは、オレを新たなバンド結成の時に誘った。
それがSt.Panchosだ。

渋谷のハチ公前で路上演奏をしていた長谷川さんと牛若さんをramuchiくんがスカウトして来た。

そして、オリジナル曲をやる様になってから、オレの三軒茶屋のマンションに集まって、4トラックのカセットのMTRで、ビートルズ顔負け、クイーン顔負けの多重録音を繰り返し、オレのミックスによって、3枚のオリジナル・アルバムを残している。

St.Panchosのメンバーは、それぞれ楽器を最低でも3つは演奏出来た。
オレはバンジョーやクラリネット、トランペットなんかもプレイした。

長谷川さん(ギター、カズー、ユーフォニウム)と牛若さん(アコーディオン、キーボード、アルト・サックス)は、ハッキリ言って天才だった。
オレは当時21歳ぐらいで、彼らは5つも6つも上の大先輩だった。
その二人がハチ公前でやっていたユニット名がボサノバ兄弟だ。

ある日、St.Panchosのミックスの件で打ち合わせする予定の日、ramuchiくんが仕事で忙しかったため欠席し、オレ、長谷川さんと牛若さんの3人が話す機会があった。

牛若さんが「大高くん、テクノってさあ、今アンビエントが出て来て盛り上がってるんだよね、The Orbって知ってる?」

「え?知らないです。オレ、アコースティック専門なんで(汗)」

「今CD持ってるんだ、聴いてみない?」

この日、オレの人生が変わった。
そう、テクノが大好きになってしまったのだ。

アンビエント、深い。どうやったらこんな音楽作れるんだ?
サンプリングって何?

The Orbを聴いている時に、長谷川さんが「外の鳥の声とかもミックスして聴こえる」って、すごいこと言って、オレは何が何でもテクノを極めてやるって決めた。

元々10代の頃、父親がオールインワンシンセを買って、それでオケを作って、
地元のロック・カフェのイベントでライブをしていたので、
そのシンセを借りて、リズムマシンもいくつか持っていて、MIDIには慣れていた。

その頃、亡くなった祖父が残してくれた300万円があったので、
躊躇しながらも(本当はボストンのバークリー音楽院に留学する為のお金だったので)、
機材を買いまくった。

特に苦労したのがRolandのTB-303。
毎日都内の中古楽器屋を巡った。
そして、一年後、えちごや・ミュージックが委託で303を売りに出して、
えちごやのスタッフが予約リスト50人を作って、目をつぶって、ボールペンで
刺した名前がオレで、14万でもすぐに買いに行った。
本物を目にした時は、体が震えた。

そして、オレ、長谷川さんと牛若さんで毎週末徹夜でオレの家と機材で、
制作を始めた。
ユニット名も全然それっぽいことしてないのに、ユニークな名前だったので、
そのまんま引き継いで、「ボサノバ兄弟」になった。

ボサノバ兄弟の活動は、今考えても素晴らしかった。
毎週末が勉強だった。
そして、主にサウンドの主導権を握っていたのが牛若さんだった。

その後ボサノバ兄弟もSt.Panchosも、オレがsuper stupid結成に誘われたので、
自然消滅した。

super stupidを始めてから、エルマロのサポートも始めて、
リハーサルやライブで、千葉に帰れないから、
下北沢に月3万5千円の風呂なしトイレ共同のアパートを借りていた。


この頃は、本当に金がなくて、貧乏だった。
そんなオレが同じ世田谷区に住む牛若さんの家に遊びに行くと、
彼はコンビニで働いていたが、駅のすぐそばに焼き肉屋があり、
テイクアウトも出来たし、
バイト先の忘年会で焼き肉用のプレートが当たったので、
肉を買って来て、オレに好きなだけ食わせてくれた。

タレはレモン汁だ。
オレは牛若さんの焼き肉が忘れられない。

そして、時は経って、super stupidで「Don't forget our youth」のレコーディングに、
オレは「サドゥ」と言う曲を作ったので、
長らく音楽活動から遠ざかっていた牛若さんを含むSt.Panchosのメンバーにお願いした。

「サドゥ」は途中でキング・クリムゾンみたいなキメのパートがあるが、
そこをザッパ並に牛若さんがヴィブラフォンの音色のキーボードで早弾きが出来るか不安だったが、彼は一発録りでキメた。

元々、このアルバムは無茶が当たり前な企画だったが、
エンジニアのIllicit Tsuboiさんは、ブースの中にいる
ミュージシャンに、「テストで一回流します、弾いてみてください」
と言って、それをレコーディングしていて、大体が緊張していないテイクなので、
OKになってしまうのだ。

牛若さんはオレに手紙を送ってくれた。
その内容は簡単にしか書かないが、今までSt.Panchosから始まって、かれこれ5年ぐらい音を共にしたが、正直言って「サドゥ」みたいな曲を書くとは思わなかったし、この曲は大高くんにとって「一生の一曲だ」と書いてくれた。
そして、レコ発のツアー・ファイナルでは、牛若さんをゲストに呼んで、
4人のsuper stupidをやったのだ。

それから、オレはソロ活動に入り、super stupidも活動休止になり、
オレがメキシコから帰って来た時に、知らされた。

牛若さんが直腸癌であることを。

若いから進行も早かった。末期であった。

「あり得ない・・・」

オレが精神的病で入院していた4ヶ月の間に牛若さんは亡くなった。
牛若さんは完全無宗教を貫いて、お葬式も身内のみのものだった。
お墓は種子島にある。

CDを出すチャンスはいくらでもあった。
牛若さんとガチで向き合ったアルバムをリリースしておくべきだった。

それから、毎年8月になると「牛の日」と呼んで、牛若さんを想うSt.Panchosのメンバーもみんな家族を持ったし
集まって飲んでいる。

オレがテクノ、テクノロジーを使って音楽を作るきっかけを与えてくれたのは、
牛若さんと長谷川さんだった。
「salaam」だって、全てギターと言っているが、DAWで編集しているし、Special Thanxには、家族の次に牛若さんの名前を書いた。
それぐらいさせてくれよ、牛若さん。

ボサノバ兄弟の残した音源は、長い間紛失して聴けなかった。
牛の日にSt.Panchosの女性メンバーが、長谷川さんがプロモーション用に配っていた4曲をカセットで持っていることが分かり、それを借りて来た。
そして、オレの部屋に山の様にあるカセットの中から、もう5曲を発掘した。

リメイクを考えたが、牛若さんの声なども入っているし、長谷川さんのフルートはフリー過ぎてコピー不可能。

4人目のボサノバ兄弟、斎藤直樹氏のノイズ・リダクションとマスタリングにより、オリジナルの音源でのCD化を決意。

正直なところ、肉体は滅んでも魂は永遠だ、と思っているが、また一方で、人の死を何だと思っているのだ、と言われそうで、葛藤がある。この音源のリリースには慎重になっている。

しかし、オレは、この世に確かに素晴らしい人間性を持った長野潮と長谷川豊が存在したと言うことをこの世に証明させたいと願っている。

尚、このCDから得たお金は、斎藤直樹氏と折半し、残りは奇跡的に連絡が取れた長野潮の母親、現在交流が途絶えてしまった長谷川豊を探し、3分の1に分配する。


大高ジャッキー

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